三浦大輔監督が誕生日に見る夢
12月25日 世間ではクリスマスとも言うが、我がベイスターズの三浦大輔監督の誕生日である。
三浦監督は、現役時代にはベイスターズのエースとして長年君臨し、我々ファンからは番長として慕われてきた。
彼の生涯成績は以下の通り。
試合数 535
172勝(うち完封勝利23) 184敗
奪三振 2481
防御率 3.60
WHIP 1.23
もちろん素晴らしい成績なのだが、三浦大輔投手の良さはこうした数字では表すことができないように思う。
【横浜を愛し横浜に愛された】
例えばこんなことがあった。
プロ野球選手のサインの転売が問題となった時、メディアから意見を聞かれて、
「そうですか。だったら、三浦大輔のサインなんて値段がつかなくなるまで書きまくってやる」
と答えた。
私たちは、彼のそう言う反骨を愛した。
例えばこんなことがあった。
2008年にFA権を得て、父上ともども子供の頃からのファンである阪神タイガースへの移籍が確定的と言われていた頃、私たちは事あるごとに「番長、行かないでくれ」と叫んだ。
そして、ある日、記者会見を開いて彼はこう言った。
「阪神タイガースには行きません。三浦大輔は、これからもずっと横浜です。
三浦大輔の原点は何かと考えたら、強いチームを倒して勝つこと。
強いチームに勝って優勝したい」
阪神のオファーはベイスターズのそれをかなり上回っていたようだが、彼の横浜を愛する気持ちとファンに対する感謝の気持ちが上回った。
私たちは彼のこうした男気を愛した。
例えばこんなことがあった。
通算勝利数が名球会の入会基準である200まであと数十試合まで迫った2012年、記者から「横浜以外のチームだったらもっと勝てたと思ったことはありますか」と聞かれ、彼はこう答えた。
「ない。俺は横浜の三浦大輔だから。」
そして、通算150勝となった巨人戦後のヒーローインタビューで、周囲に飛び交う「番長おめでとう」の声を聞きながら、こう語った。
「ファンの皆さんがこんなに喜んでくれてよかった。
横浜に残って本当によかったです!」
そう、彼と私たちファンとは相思相愛だったのだ。
例えばこんなことがあった。
引退試合が予定されていた2016年のある日、雨天のため試合中止が決まった。
その時点で横浜スタジアムには開場を待つファンの長い行列ができていたが、自らマイクを握り、辛抱強く行列を作っていたファン全員に感謝の気持ちを述べ、風邪をひかないように気をつけて帰ること、次の機会を楽しみして欲しいということを直接伝えた。
私たちは彼のそう言う優しい人柄を愛した。
そして、2016年9月29日、シーズン最終戦となった横浜スタジアムでのヤクルト戦が彼の引退試合だった。
冷たい小雨が降り続く中、私は多くのベイスターズファンと共にスタンドで試合を、いや三浦大輔の最後の投球を見守った。
乱打戦となったその試合で、三浦大輔は10点を失い、敗戦投手となった。
引退試合は、通常、打者1人を相手にする儀式的な投球が多く、これほど打ち込まれた投手を見たことがない。
既に10点を失っていた6回。投球数も100を超え、次の攻撃で打順が回ってくることから交代を予感してスタンドに手を振っていた三浦投手だった。
しかし、当時のラミレス監督の指示で打席に立ち、そして次の回の最初の打者を打ちとったところでマウンド上で万雷の拍手の中ベンチに戻っていった。
アレックス・ラミレスのこの粋なはからいは中々良かった。
三浦大輔の引退試合での挨拶。少し長いが全文を書き出しておこう。
“本日は三浦大輔のために、このようなセレモニーを開いていただいて本当にありがとうございます。
1992年に、大洋ホエールズ最後の試合でプロ初登板をしました。
その時、遠藤一彦さんの引退試合があり、2年目には斉藤明夫さんの引退試合があり、それをグラウンドレベルで見て、自分もこういった引退セレモニーをしてもらえる選手になりたいなと思って頑張ってきました。
あれから25年。たのしいこともいっぱいありました。
僕が勝って喜んでいるのに、みなさんはそれ以上に喜んでくれて、僕はそれを見てまた喜んでいました。
しかしそれ以上に、いっぱい負けました。
今日も、最後の最後までみなさんに迷惑をかけて本当に申し訳なかったと思います。
苦しい時もいっぱいありました。
心が折れそうな時もいっぱいありました。
でも頑張って来れたのは、みなさんが背中を押してくれて、声援を送ってくれたおかげで、ここまで倒れずに前を向いて一歩ずつ踏みしめてこれました。
本当にたくさんの人に愛されたと思っています。感謝しています。
いろいろなことを考えてきたんですけど、頭の中が真っ白です。
今は本当に、このようなことをしていただき、最高に気分がいいです。
できることなら、このまま時間が止まってくれればなぁと思っています。
でも、チームはクライマックスシリーズが控えています。やっとCSに出れます。
どんどんチームが変わってきて、苦しかったことを乗り越えて、やっと横浜DeNAベイスターズいいチームになったよなってみんなに自慢できます。
横浜一筋で25年来れたのもみなさんのおかげで、横浜一筋で来れたことを誇りにこれからの人生も頑張って行きます。
ヤクルトスワローズの皆様も、最後までお付き合いいただき誠にありがとうございます。
ヤクルトファンの皆様も本当にありがとうございます。
横浜DeNAベイスターズのスタッフ、選手、監督・コーチ、球団職員の皆様、本当にありがとうございます。
そして普段、口に出して言えないですけど...
グラウンドではファンの方々に支えてもらいました。家に帰れば、家族が三浦大輔を支えてくれました。
本当にありがとう。
三浦大輔を25年間応援していただき、本当にありがとうございました。感謝します。
今シーズンをもちまして、現役を引退しますけども......
これからも三浦大輔はずっと横浜です!ヨロシク!
ありがとうございました!”
【三浦大輔監督の夢】
49歳になった今日の誕生日。
報道陣から大きなケーキをプレゼントされた三浦監督は、来年の夢を聞かれて、
「優勝して、横浜でパレードしたいです」
と答えた。
三浦投手も12勝を挙げて貢献した1998年の優勝時には、オープンカーに仕立てた市営バスに選手たちが乗り込み、沿道に詰めかけた40万人のファンに祝福されながら、みなとみらいから横浜スタジアムまで2キロちょっとの道のりをパレードした。
横浜の街にもう一度あの歓喜を。
ところで、三浦さんは現役時代からの馬主であることでも知られている。
きっかけは、知り合いの記者が野球と競馬の両方を担当したことのある人だったことから、著名な調教師の方を紹介され、その方に薦められて馬主になったと言うこと。
ご令嬢の三浦凪沙さんは競馬担当の記者(東京サンスポ)であり、お父さんの持ち馬リーゼントブルースのデビュー戦を生観戦したことから競馬にはまったらしい。
以前、何かのインタビューで三浦さん自身が語っていたが、馬主になった理由として、競馬ファンにプロ野球に興味を持ってもらい、プロ野球ファンに競馬に興味を持ってもらいたい、ということがあった。
その意味も込めて、彼の所有する競走馬の名前には全てリーゼント〇〇という分かりやすい名前がつけられている。
誕生日祝いの会見で、三浦監督は、横浜で優勝パレードと言う夢に付け加えてもう一つ、
「僕は自分の馬に乗りますよ」
と宣言していた。
私には、馬上の人となった三浦監督に率いられ、オープンバスで続くベイスターズの選手たちの勇姿、そしてそれを見守る沿道に溢れんばかりの大勢のベイスターズファンの姿が鮮明に見えるような気がした。
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