mizuyashikiのブログ

横浜ベイスターズを中心にその時に考えていることを書きます。

日本シリーズの記憶(1971年読売ジャイアンツ対阪急ブレーブス)

明日からヤクルトスワローズとオリックスバッファローズの日本シリーズが始まる。


来年こそは我がベイスターズがペナントレースを制し、クライマックスシリーズも勝ち上がって日本一を決めるこの舞台に駒を進めることを祈っている。


私の記憶の中で一番古くそして一番印象深い日本シリーズは連覇中の読売ジャイアンツと阪急ブレーブスが戦った1971年特に第三戦だ。




1971年と言えば私は小学校低学年で、野球を見はじめた頃だ。テレビでは星飛雄馬が大リーグボール三号で自分の左腕を犠牲にしながら完全試合を達成し、子どもたちは毎日広場や校庭で三角ベースの野球に熱中していた。


この年は日本プロ野球の歴史の中でも輝きを放つ出来事がいくつかあった。


一つ目は7月のオールスター第1戦での江夏豊さんによる打者9人連続三振だ。


その年の江夏さんは開幕から不調でオールスター直前で負け数の方が多い状況だった(6勝9敗)。後で本人が明かしたところによると心臓の病気があったらしい。


それでもファン投票ではセリーグの投手部門一位でオールスターに選ばれた。

意地の悪い新聞記者がその成績だと少し恥ずかしいですねという趣旨のことを江夏さんに言ってたきつけたところ、彼は、「だったら登板予定の3回で9人のバッター全部三振にとりますわ」と言ったらしい。


迎えたオールスター第1戦のセリーグ先発は予定どおり江夏豊。

初回はロッテ有藤、西鉄 基、阪急長池を三振に討ち取った。長池を空振り三振に仕留めたボールは今の呼び方だとスプリットフィンガードファストボールだそうだ。


2回はロッテ江藤、近鉄土井、西鉄東田をこれまた三振。東田の最後のボールは江夏の特徴的なカーブで、手が出ずに見逃し三振だった。


そして3回。阪急の阪本と岡村が三振。9番バッターはピッチャーの米田で、代打に同じく阪急の加藤秀司が出た。

江夏さんはその時の球場が異常なほど静まりかえっていたと言う。数万人のファン全体が本当に静寂だったのか、それとも彼自身が投球に集中して無我の境地に入っていたのか。


加藤の三球目はバックネット方向のファウルフライ。これを捕球すると連続三振が途切れてしまう。

江夏さんは同じチームの田淵幸一捕手に「追うな」と叫び、その次の4球目で空振り三振。まさに有言実行の9連続三振の偉業だった。


二つ目は王貞治と江夏豊のライバル対決だ。


この二人は伝統の巨人阪神戦で繰り返し戦う宿命のライバルで、3年前の1968年に江夏さんがシーズンの三振数日本新記録を打ち立てた時も狙って王さんから奪った。


実はタイ記録も王さんだったのだが三振の数を一つ間違えていたらしく、それが新記録と思っていたらしい。切り替えてその後の8人は三振以外でアウトを取り、次の王さんから三振を取るという離れ技をやった。

途中、バッティングの苦手な高橋一三投手がバットに当てられるようにまん真ん中に遅いボールを投げ当ててくれと祈った時が一番ハラハラしたそうだ。


1971年のシーズン。王さんは極度のスランプで、9月15日の甲子園での試合でも江夏投手に3つの三振を奪われていた。


9回表、2-0で阪神のリード。江夏さんにしては珍しくフォアボール2つで二死二、三塁。打席に入った王選手は既にツーストライクまで追い込まれていた。

辻捕手がその日全くタイミングのあっていなかったカーブを要求すると江夏さんは首を振る。マウンドに行って「何でカーブを投げないんだ。三振でゲームセットやないか」と言うと、江夏さんはボソッと「打てん球で勝ってもしゃあないやないか」と答えたらしい。


そして投じたストレートを王さんが強振した。甲子園のライトスタンドに飛び込む逆転スリーランホームランだった。

ダイヤモンドを一周してホームに戻ってくる王さんの足取りはなぜかフラフラしていて、ひょっとしたら涙ぐんでいたのではないかと辻さんは後に語っていた。

王さんほどの選手でも、渾身の勝負でスランプを脱し、全身の力が抜けてしまったのかも知れない。


また前置きが長くなってしまった。歳のせいだ。


1971年の日本シリーズは、川上監督率いる6連覇中の読売ジャイアンツと西本監督率いる阪急ブレーブスの間で戦われた。


西宮球場で行われた第1戦は2-1でジャイアンツが勝ち、第2戦は8-6でブレーブスが勝った。移動日をはさんで、10月15日の第3戦が後楽園球場で始まった。先発は第2戦と同じく巨人関本、阪急山田だった。


9回裏まで投手戦。1-0でわずかに阪急がリード。山田投手は3回から8回二死まで一人のランナーも出さず巨人打線を完璧に抑えていた。


この時、私は小学校に居た。放課後だったのだろうと思うが、廊下に居ると校長室から日本シリーズの実況の音が少しもれてくる。

私は精一杯背伸びして廊下の窓から校長室のテレビ画面を覗いていた。

しばらくして校長先生が私に気づいたらしく、廊下に出てくる。叱れられるのかと思って体を硬くしたが、先生は「野球が好きなのかい?良かったら部屋で一緒に見よう」と言ってくれた。


緊張しつつ校長室のソファーにちょんもりと座って再びテレビを見はじめた。


一死から柴田がフォアボールで出塁。次の柳田はアウトになったが、長嶋のショートへの当たりは遊撃手の阪本が何故か反対方向に動きかけ、結局ギリギリ追いつかずにレフト前に抜けるヒットとなった。これをとっていればゲームセットのはずだった。


二死一、三塁でバッターは王貞治。私は手のひらを握りしめて画面を見つめた。


ランナーがいるため山田投手はクイックモーションで投げる必要があり、王選手を抑え込んでいたその前の3打席とはリズムが違った。

1-1からの三球目を振り抜くと、白球はライトスタンドへ飲み込まれて行った。逆転サヨナラスリーランホームランで試合が終わった。


私が忘れられないのはその後の光景だ。


山田久志投手は渾身のボールを王選手に打たれると振り返りもせずにその場に崩れ落ちた。

その後、彼が高校野球のゲスト解説でNHKに招かれた時、ちょうど金属バットが普及した頃だったのだが、アナウンサーが「こう言う甲高い金属音というのは木のバットでは無いわけですが」と言いかけると、それを遮って、「いや、私は一度だけ聞いたことがあります。1971年日本シリーズでの王さんのサヨナラホームラン」と言った。


振り向く必要など無く、サヨナラホームランであることを山田さんは耳で確信したのだろう。その場に崩れ落ちて立ち上がれなくなった。外野から福本選手、そして、ベンチから西本監督、何故かこの二人だけが崩落したエースに駆け寄り、両脇から支えるようにしてベンチに引きずって行った。


私は「大人の仕事ってすごいな。失敗したら立ってられなくなるくらい命がけでやるんだな。」と思った。そして、自分も早くそう言う大人の仕事を必死にやりたいな、と思った。


その後、私の人生では数万人の観客の前で命がけの勝負をするような場面は一度も無かった。しかし、あの時の山田投手の渾身の投球とその後の崩落はいつまでも目に焼き付いていて、気持ちだけでもこうありたいと願い続けている。