mizuyashikiのブログ

横浜ベイスターズを中心にその時に考えていることを書きます。

三浦大輔監督の通過儀礼



5月12日 対読売ジャイアンツ 横浜スタジアム 1-4 負け


三浦大輔さんがベイスターズの監督に就任して以来、えっ本当ですか? と言うような試練が幾つもあり、その度に彼自身もチームもファン一同も苦悩を感じてきた。


転んでもただでは起きないと言うような損得勘定を言うつもりはないが、それでも、三浦さんの監督としての経験や知恵、あるいはチームの地力がこうした試練を乗り越える度に蓄えられていると思いたい。


この試練の道を歩む三浦さんを傍で見守りつつ、私は、通過儀礼という言葉を時々思い出す。


かつてネイティブアメリカンの少年が一人前の男として部族の人々に認められるために、何も持たずに砂漠に放り出されて不眠で何も食べずに過ごして幻覚に襲われつつ数日を過ごすとか、南太平洋バヌアツの青年がギリギリ地面に届くほどの縄を使って高い塔からバンジージャンプをするとか、そう言うやつです。


昨シーズン初めの外国人選手たちのコロナ禍での入国の遅れや、大量の肘肩の手術、そして今シーズンの今永昇太、タイラー・オースティン、森敬斗の故障による長期離脱、コロナのクラスターによる大量離脱、宮﨑、伊藤光、佐野、大田などの主軸の相次ぐ故障と言った一連の出来事は、三浦さんが一人前の監督になるための荒っぽい通過儀礼のように思えるのだ。


通過儀礼は、それを乗り越えたものにとっては誇りや自信の源泉になるだろうし、周囲もそれで一人前と認めてくれるということもあるだろうと思う。


しかし、通過儀礼と言うものは、選ばれたものだけを残し、それ以外の人々を淘汰する冷酷な選別装置と言う一面も確かに持っている。



三浦大輔さんは、さまざまな試練ばかりの通過儀礼を乗り越え、勝てる監督として生き残ることができるのか、それとも2年間つまり今年いっぱいの任期で契約が終わりAクラスに入れなかった監督として終わるのかは正直言ってまだ良くわからない。


ところで、通過儀礼と言うのは、上に書いたようなチーム編成上の問題として課せられるものばかりではない。


日々の試合でも、難しい局面で瞬時に正しい判断を求めると言う形の通過儀礼も数多く存在するのだ。


今日のジャイアンツ戦でも、はっきりとそう言う場面があった。


1-2と1点ビハインドで迎えた4回裏の攻撃。
先頭の牧がゴロでセンター前に抜けるヒットを放ち、続くソトのライトフライはポランコ選手の拙守もありラッキーな二塁打となって無死二、三塁のチャンスとなった。


しかし、6番大和が空振り三振、7番柴田はサードへのポップフライで凡退して二死二、三塁。こうなると、ジャイアンツバッテリーは当然8番嶺井を申告敬遠して満塁策をとる。


ツーアウト満塁の場面で、次の打者はソロホームラン2本で2点取られたとは言え好投を続ける大貫晋一だ。


今日の三浦監督の通過儀礼はこれだったと思う。


解説の新井貴浩さんは、ここは代打でしょうね、と迷わずに言っていたが、三浦監督の選択は大貫の続投でそのまま彼を打席に送った。


結果は三振でチェンジとなり、ベイスターズは流れを呼び込むことが出来ず、その後さらに2番手のエスコバーが2点を失い1-4で破れた。


私はこの采配を批判するつもりはない。それは結果論にしかならないからだ。


ここで代打藤田一也を送っていたとしても、点を取れる確率はさほど高くないだろうし、5回からの継投ではさらに失点していた可能性もあったと思う。


私が注目するのは、投手出身の三浦監督は大貫の続投を選び、野手出身の新井貴浩さんは迷わず代打と言ったことだ。おそらく、新井さんが新人監督としてこの局面を迎えたら代打を出すのだろう。


監督の究極の目標は勝つことにある。これは間違いないし、どの監督でも同じだろうと思う。


しかし、その勝ちに至る「形」には様々なパターンがあり、新人の監督は選手時代の成功体験に引きずられる傾向があるように思えるのだ。


今日の三浦監督は、先発ピッチャーが6回ないしは7回を投げ切ってその間に打線が追いついて逆転勝ちをすると言う彼自身が投手として何度も体験した「勝ちの形」を目指したのだろうし、新井さんは代打策が当たって一気に逆転しその後を継投で逃げ切ると言うこれまた彼自身が体験した「勝ちの形」を目指したのだろう。


新人監督がこうした選手時代の成功体験と離別し、投手の目線でも野手の目線でもなく純粋に監督という指揮官の立場でその局面で最適な「勝ちの形」を見つけ、それに向けて打つべき手を打つようになる、と言うのが今日の通過儀礼だった。


三浦監督自身に聞いて見ない限りは、あるいは聞いて見ても、本当のところはわからないが、今日の彼の判断は、投手出身か野手出身かを超越した指揮官としてのそれではなかったように思う。


指揮官としての覚めた目ではなく、三浦大輔投手が現役時代に目指していたのと同じ感覚で、先発投手が長い回を投げてその間に野手が逆転すると言う勝ちの形を反射的に選んだように思えてならない。


成功と失敗は時の運で、それは誰にもわからない。しかし、三浦監督は、投手としての習性を捨て、純粋に指揮官として最善な勝ちの形を模索する姿勢を身につけなくてはならない。それが今日の彼にとっての通過儀礼だったと思う。


そして将来新井貴浩さんがカープの監督に就任された時にも、同じ通過儀礼が待っているのだ。