mizuyashikiのブログ

横浜ベイスターズを中心にその時に考えていることを書きます。

横浜モバゲーベイスターズになりかけた日

2010年冬に住生活グループ(現LIXILグループ)がTBSからベイスターズを買い取ろうとし、そして断念したことは既に書いた。


実はその時並行してDeNAが新オーナーになると言う話もあったらしい。


2010年にTBSホールディングの取締役からDeNAの最高財務責任者だった春田真さんに打診があったそうだ。この時は、TBSには住生活グループという本命があり、DeNAはTBS側から交渉打ち切りを通告されたのだ。


だが、本拠地の移転などを巡り10月末に交渉は決裂。すると11月に入って再びTBSから打診があった。しかし、2度目の交渉も頓挫した。公正取引委員会がDeNA本社に立ち入り調査に乗り込んできたのだ。

DeNAが運営する「モバゲー」を巡り、ゲームを提供する会社に対してDeNAが競合他社へのゲーム配給をやめるように圧力をかけた、という疑いをもたれたのだ。


その後またしてもTBSから横浜買収の打診があったのは、その直後の11年8月のことだった。三度目の正直を期して春田さんは社内でも極秘にわずか3人の買収チームを結成した。


しかし、難題があった。


当時、球団と横浜スタジアムの運営会社は別々で、球団はスタジアムに収入の25%を支払う契約となっていた。飲食などの収入もハマスタに入る。しかもハマスタは黒字のためわざわざ客を呼ぶための投資をしようという意欲に欠ける。


「僕は球団を強くします。そやから、どうか球場をもっときれいにしてください。鶴岡さんもハマスタを満員にしたいのとちゃいますか」


地をさらけ出した関西弁での交渉でTBSから「頑固者」と聞いていた横浜スタジアム社長の鶴岡博さんと打ち解け、二人三脚で売り上げの拡大を目指すという前提で料率を25%から13%に下げることで折り合った。


次は球団の名前を決めなくてはならない。


DeNAがプロ野球実行委員会に申請しようとした球団名は横浜モバゲーベイスターズだった。


DeNAの場合、海外でもモバゲーという名前でサービスを展開していたし、球団名にモバゲーを入れればその知名度をさらに高めることができる。社名とサービス名が同じほうが、インターネットサイトにユーザーを呼び込みやすく、広告収入を増やしていくうえでもメリットがあるという理由が背景にあったようだ。


オーナー会議ではサービス名をチーム名称として用いることには反対があった。そこで、DeNAは社名をモバゲーに変えてまで横浜モバゲーベイスターズにこだわったらしい。



そして、巨人の渡辺恒雄会長も10月31日、社名を変更した上であれば、「モバゲー」を使用しても問題ないとの考えを明らかにしていた。


私は少し慌てた。チーム名が省略されるプロ野球関連ニュースでは、


モ3-巨1 勝三浦(3勝6敗) 負内海(6勝3敗) とか


村田修一(モ)の逆転ホームランで とか


書かれることになってしまう。う〜ん。


それに、そもそも、モバゲーという名称がおそらくモバイルとゲームを合わせた造語の省略形だと思うので、なんとなく軽く、スタイリッシュという方向性の逆に思えた。


私は、横浜にベイスターズが残るならいいじゃないか、と自分に言い聞かせていたが、その時、朗報があった。


DeNAはモバゲーという言葉を球団名に入れることを断念したのだ。

社名変更には2012年6月の株主総会での承認が必要で、それまでは暫定の球団名を使わなければならない。他球団の反発が予想されるほか、新たな球団としてファンの支持を集めるには、早めに球団名を決めたほうが得策との考えもあったそうだ。


三度目の正直で球界参入に名乗りを上げたDeNA。そこに思わぬ「敵」が待ち構えていた。楽天社長の三木谷浩史がDeNAを名指しで批判し、横浜買収に反対を唱えたのだ。


波乱のまま迎えた11年12月1日のオーナー会議。早朝に会場入りした春田さんは、日本野球機構(NPB)の職員から手渡された資料を目にした時、思わず絶句した。65ページにわたってネット上から拾ったDeNAへの誹謗中傷などが並んでいた。


オーナー会議では予想通り、資料について突っ込まれた。

途中退席を告げられると、今度は薄い仕切りの向こうからオーナー同士の議論が聞こえてくる。春田さんがハッとしたのは、特徴的な広島弁が耳に飛び込んだ時だった。 


「まあ、そうは言うても球界に入ってくれると言うとるんじゃけぇ。そんなにいじめんでもええじゃろ」


広島東洋カープオーナーの松田元さんだった。この後、オーナーたちの了承を得てDeNAの横浜買収が承認された。

ここから広島とDeNAの交流が始まり、球界に新規参入したDeNAは職員を広島に派遣して球団経営のイロハを学んだのだ。


「ワシも若い時にオーナー代行になってなぁ。散々、いじめられたもんじゃから……」。

それが春田さんに助け舟を出した理由だと言う。



オーナー会議で三木谷社長から強い反対意見があったが、松田オーナーの一声でDeNAがベイスターズの新オーナーになることが認められたという経緯は当時の新聞にも報道されていたため、私は松田さんの創業家ならではの懐の深さに尊敬の念を抱くとともに、深く感謝したことを覚えている。


こうした紆余曲折を経て、横浜DeNAベイスターズが発足した。


そして、この曲がりくねった道はその後10年経っても、まだ、曲がりくねったまま続いている。