mizuyashikiのブログ

横浜ベイスターズを中心にその時に考えていることを書きます。

須田幸太の野球人生



須田幸太投手は1986年生まれ。

茨城県石岡市の出身で、県立土浦湖北高等学校ではエース兼4番。


強豪並みいる茨城県で県立高校の雄として頭角を表し、2年秋にチームを関東大会初優勝、3年春に選抜高等学校野球大会初出場に導いた。


3年春の選抜大会では、鵜久森淳志(日本ハム、ヤクルト)や福井優也(広島、楽天)などを擁する済美高校と対戦したが、0 - 9で初戦敗退した。練習試合で投げすぎた影響で右肘を痛めていた影響は少なからずあったと思う。


高校卒業後に早稲田大学へ進学。東京六大学野球では、エースナンバーの11を背負った3年の春季にリーグ戦初勝利し、斎藤佑樹と並んで先発に定着。3勝1敗を記録し、チームは優勝した。そして、4年の春季リーグ戦で最優秀防御率に輝いた。


大学時代の通算成績は、8勝3敗、防御率1.74、76奪三振。早大の同級生には後にベイスターズでチームメイトとなる細山田武史捕手や松本啓二朗外野手そして阪神タイガースの上本博紀選手らがいた。


大学卒業後にJFE東日本硬式野球部に所属し、1年目の2009年都市対抗野球の全国大会では、チームが出場を逃しながらも、自身はHondaの補強選手としてクローザーの大役をつとめ、Hondaの優勝に貢献して若獅子賞を獲得した。


2010年のNPBドラフト会議で、横浜ベイスターズから1巡目で指名された。背番号は20。ベイスターズでは初め先発投手としてローテーションの座を狙ったが定着することはできず、2015年途中までまで一軍と二軍を行き来する状況が続いた。


須田投手が本領を発揮したのは2015年シーズン途中にリリーフ陣に加わってからだ。


球速は140km/h中盤ながらキレの良いきれいな回転のフォーシームをアウトローにピタッと決める制球力が須田投手の最大の魅力だった。



2016年、レギュラーシーズンでは、開幕を一軍で迎えると、一軍の公式戦でチームおよび自身最多の62試合に登板。勝ちパターンの中継ぎ要員として5勝3敗23ホールドを記録するとともに、チーム史上初のクライマックスシリーズ(CS)進出へ貢献した。


この頃、横浜スタジアムのバックネット裏に毎日一人で来ている男性ファンが居た。彼は声を出しての応援というのは一切しなかったが、唯一の例外は須田幸太の登場時だった。


須田がリリーフカーに乗って登場すると、彼は、腹の底から絞り出すような太くて大きな声で、「すーーーーーだーーーーーああああ」と吠えるのだ。

彼の遠吠えのような声は内野席中に響き渡った。我々は皆、少し驚きながら、須田のことが本当に大好きで心から応援しているんだなと思った。


ある日のカープ戦、二死満塁というピンチを残してウィーランドが降板した後を引き継いで須田幸太が登場した。いつもの遠吠えのような応援を聞いた後、彼は、糸を引くようなきれいな回転のストレートを投じてバッター(確か菊池涼介だったと思う)を三振に打ち取り、小走りでベンチに戻ってきた。ハラハラして見守っていたウィーランドは、狂喜して須田を迎え、抱きついたり、どやしつけたりしていた。須田は、いつもの、ミッフィーちゃんが成人男子に憑依したようなつぶらな瞳で当惑しつつニコニコしていた。


9月24日の対巨人戦(横浜)で左太腿裏の肉離れの故障、登録抹消。一時はポストシーズンでの登板が危ぶまれたものの、広島東洋カープとのCSファイナルステージ第3戦で実戦に復帰。3点リードの8回裏2死満塁からの救援登板で新井貴浩をオール直球で打ち取ったことによって、チームの同ステージ初勝利に貢献するとともに、自身もポストシーズン初ホールドを記録した。


2017年、自身の不調に加えて、スペンサー・パットン、砂田毅樹、エドウィン・エスコバーが一軍の救援陣で台頭したこともあって、一軍公式戦では23試合の登板にとどまった。しかし、チームが前年に続いてポストシーズンを迎えたことから、CSや福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでの登板を経験した。


2018年球団から戦力外を通告され、JFE東日本に再入社。硬式野球部に復帰したうえで、プレーした。


須田投手はプロ入り後も同社への愛着を持ち続けてきたし、JFE東日本でチームメイトだった落合成紀監督が「プロでの生活が終わったら戻って来て欲しい」と強く誘ったことが決め手となった。


2019年には、日本野球連盟が管轄する社会人野球の全国大会で、通算7勝1敗をマーク。最多勝利投手賞を受賞したほか、社会人ベストナインに初めて選ばれた。


そして、7月に出場した第90回都市対抗野球大会では、早大とベイスターズでのチームメイト細山田擁するトヨタ自動車と決勝で対戦すると、救援登板で2回1/3を完璧に抑えたことによってチームの初優勝に貢献した。


この大会では、決勝を含むチームの全5試合に救援で登板。通算投球イニング14回で4勝、17奪三振、防御率0.64という好成績を挙げたことから、橋戸賞(大会MVP)を受賞した。これは元プロ野球選手としては初めてのことだ。



その一方で、シーズン終了後には、右肘のクリーニング手術を受けた。


須田投手は今年で35歳になった。そして、今年の都市対抗の前にJFE東日本落合監督は「須田とは集大成として今シーズンを歩んできました。」と言っていたのが私は少し気になっていた。


チームは惜しくも準々決勝で敗退した。


都市対抗敗退から2週間後、須田投手はツイッターで「来年から野球部を離れ社業に専念します。たくさんの熱い応援本当にありがとうございました」と現役引退を表明した。


この日DeNA球団公式ツイッターも反応し、「2016年、初のCS進出へ導いてくれた時は忘れません。須田幸太選手、現役生活お疲れさまでした」と労いのメッセージを寄せた。


須田投手の真っ直ぐな目と野球に取り組む姿勢、そして強気のストレート勝負はチームメイトやコーチ、監督そして我々ファンの皆から愛された。本当に素晴らしい野球人生を送ることができたのは彼自身の資質と人間性によるところが大きいだろう。


だから、彼がこれから何をするにしても、きっと上手くいく。皆から愛され頼りにされることだろう。


これからの須田投手の人生に私からも精一杯のエールを送ろうと思う。


「すーーーーーだーーーーーああああ」